Home 協議会について
記事インデックス
協議会とは
有床診療所の特性
history
すべてのページ

有床診療所の足跡と将来展望

                                      全国有床診療所連絡協議会会長  清成正智

 すでに10年近くになるが、最初にこの運動を起こしたのは、昭和61年の初めだったと思う。
  有床診療所の使命は終わったというようなことを、ある厚生省の官僚があちこちでアドバルーンを上げていると聞いていたのが、その原因であった。
  このままでいけば有床診療所は潰されるという危機感があり、何か会を作ってそれに対応しなければ押し流されるということがあって、61年7月に外科系の先生方が集まって、何とかしようではないかということを申し合わせた。
  そして、昭和61年7月に第1回の福岡県の有床診療所協議会設立準備委員会というものを作った。その当時は、まだ有床診療所という言葉すらあまりポピュラーではなくて、医師会の先生方も、有床診療所とは何かというような声があちこちで聞こえていたような時代で、我々がこういう設立運動を起こした時も、県の医師会はまったく冷たくて、今頃何を言っとるかというようなことであった。
  有床診療所は診療所であり、日本医師会というのは診療所をもって緒としている、だから会の中に会を作るなんてもっての他だというような考えが底流にあった訳である。だから我々がこういう会を作るといった時は、もうとにかく四面楚歌で、まったくとりつくしまもなかったというのが最初の印象であった。ただ、その時に福岡市の医師会の当時会長で、現在福岡県の医師会会長・松田一夫先生が、ただ一人我々のバックアップをして下さり、我々が会を作る時には、金も何もないので全部市の医師会の中に、部屋も、それから事務員も出していただき、やっと設立準備委員会ができたのである。松田会長は県医師会長と同時に日本医師会の監事もされているが、四面楚歌の時に松田会長の支援があってこそ、我々のこの会ができたのだと思う。9月になって設立の趣意書を12大都市の医師会長、それから各県の医師会長宛に全部出した。ところがまったくのなしのつぶてで、今頃何を寝言を言っとるかというようなことであった。
  しかし我々も、ここまで来た以上は必ずこれを実現させなければだめだということで、昭和61年11月に、県の医師会は反対であったが、11月3日に福岡県の有床診療所協議会の設立総会をもった。その時は、有床診療所の会員もみんな危機感があったので、会費をいくらにするかというと、作ったばかりで金が要るなら10万円でも出すぞという元気のいい会員もいたが、一応、1人年間12,000円、月にして1,000円という会費を決めた訳である。そして、私の出身が山口県で、当時、林 義郎厚生大臣がおられたので、大臣に対し陳情書を差し出し、もう亡くなられたが、安部晋太郎代議士と私は中学校の同期なので、彼にも頼んで、陰でいろんな力になってもらった。
  そうこうしているうちに、昭和62年2月に滋賀県で有床診療所の会を作るというような声が持ち上がったので、早速うちの会から松本専務理事を滋賀県のほうにやって、いろんなアドバイスをしたことがある。
  そして、3月には横浜市の医師会から、やはり有床診療所の会を作ろうというようなことで、福岡のほうに見学に来られ、昭和62年の6月に、加藤先生が会長で横浜市に有床診療所の会ができた訳である。昭和62年6月には下関地区有診が出来た。
  福岡県、滋賀県、下関市それから横浜にできたが、しかしこれは、ものを申すためには全国組織に仕上げなければだめだということで、この4つあれば東と西に分けて、全国という名を使ってもおかしくなかろう、というような、まったく大それた考えで全国組織を作るほうに乗り出した。
  そして63年の2月に横浜で神奈川県の医師会館を借りて、全国有床診療所連絡協議会設立総会を開いた。その時、林元厚生大臣と、寺松健政局長(当時、審議官)に来賓として講演をしていただいた。その当時も、やはり有床診療所問題に対しては、非常に医師会は冷たくて、全国から様子だけは見に行ってこいというような格好で、あちこちの県の医師会から参加していたが、ただ協議会がどういうものかという、状況だけを見てこいというような県があったようである。設立総会をしたので、今度は本当の第1回の総会を開こうということで、63年8月に第1回の全国有床診療所連絡協議会の総会を福岡で開いた。この時も、福岡県の医師会館を貸してもらえるかどうかということで、いろいろ問題があったが、日医のほうから若狭常任理事も出席することになっていたので、県の医師会も会館を貸してくれた。その頃の会長は、前の県医師会長の櫻井先生(故人)であったが、自分のところも有床診療所で理解はあったが、何せ日医の方向がまだ決まってないので、県の会長としての方向性を、まったく自分としては出していなかったというのが本音ではないかと思う。
  その当時の有床診療所協議会の目的は、48時間規制の医療法第13条の撤廃ということを先ず掲げていた。13条がある限り48時間の規制というのは厳然とした事実である。ただ努力規定になっているが、いつでも衣の下に鎧は見えている。もうずっとあとであるが、医療費の改定の時に、有床診療所の場合は、寝具料とか給食料は、病院とまったく同じものを提供しても点数がとれなかった。我々も、厚生省のほうに陳情に行ったこともあるが、「それでは先生、48時間、2日間だけ寝具料を認めましょうか」というような言葉が、冗談ではあるが返ってきており、決して努力規定とは言いながら、いつでも伝家の宝刀は抜けるという状況にあった訳である。だから、我々はそれに対して非常に危機感をもっていた。日本医師会のほうでは、「寝た子を起こすな、今、48時間の規制問題は、何も厚生省は言ってないではないか、だから寝た子を起こすようなことはするな」ということを盛んに言われて、我々は大分叱られた訳である。我々もここまで来た以上は、寝た子を起こしてでもこの48時間の規制問題を決着つけなければ、いつどうなるか分からない、という危機感から立ち上がったのである。
  その時のエピソードとして、福岡県の有床診療所の会は、はじめは協会という名を付けていた。そうしたら、「協会とは何事か」ということで、「じゃ、協議会に名前を変えましょう、協議会ならよろしゅうございますか」と言ったら、「協議会ならいい」と。協会と協議会とはどう違うか分からないが、そういうふうに名前一つに対してもやかましく言われた時期があった。
  そういうことで、第1回全国有床診療所連絡協議会の総会は福岡で行ったが、2回目が滋賀県で、平成元年に行った。その時は、村瀬副会長(当時)と若狭常任理事と2人で出席された。平成2年に第3回目が山口県の下関市で行われたが、この時初めて日医の羽田会長の出席を得た。山口県の会長の田村武男先生の非常な努力のお陰で羽田会長が出席されたのであるが、その時にいろんな有床診療所問題をじかに会長に話して、会長も理解を示した。日医のほうで有床診療所も認知されたなあという感じがそれから生じた訳である。
  そして、平成3年に第4回目を福島県の郡山で行うということになって、3回目の下関にみえた羽田会長に出席を要請したら、「来年は僕も行くよ」という約束を得ておった訳であるが、これがいろんな経緯があって、第4回目の福島県の郡山で行われた有床診療所の総会にはとうとう出席されなかった。これにはいろいろ問題があった訳で、羽田会長自身は出席の予定であったようだが、もし自分が出席すればいろんな問題が派生するのでという老婆心があったようである。
  平成4年に第5回目が、矢崎先生の会長の下に金沢で行われた。この時は、坪井副会長(当時)と、それから宮坂常任理事も参列された。この時初めて、本当に日医の中に有床診療所というものが認められたという実感がわいた訳である。
  そして、その年の9月に日本医師会の中に、小規模入院施設検討委員会が設けられ、我々も委員の中に選ばれた。そこでずっといろんな討議をしたが、日医の中にはたくさんの委員会があるが、この小規模入院施設検討委員会ほど、こじんまりとして、まったく侃々諤々、本当に本音で討議した委員会はなかったと、私は思っている。だから、本当に8人の委員がいろんな角度から腹蔵なく意見を述べた。そして、平成5年の3月に中間報告を出したのであるが、その時も、30床を上限とし、1人の医師が管理できる範囲を我々は有床診療所のモットーとしている、あくまでも病院と違うのは、病院は組織医療であって、有床診療所はいわゆる小規模入院施設という1人医師機能であると、そこが病院と有床診療所のまったく違うところだということを、その時書いた訳である。小規模入院施設というのは、プライマリーケアを含めた地域のかかりつけ医として、さらに専門性をもつ地域密着型の小規模入院施設と位置づけていて、全人的な医療を行っているという自負がある。そして、平成6年の3月には、最終答申を出した訳だが、この答申の実現に向かって我々は努力している。日医の小規模入院施設検討委員会ができた頃から、有床診療所問題も日医の中で真剣に取り上げられてきたが、それまでは有床診療所問題は、日医の病院委員会の中で検討されていた。病院委員会に出席していた委員の先生のお話を聞くと、病院委員会の中で有床診療所問題を出すと、まさに袋叩きにあって、アレルギーがものすごかったというふうなことであった。小規模入院施設検討委員会ができたということは、非常に我々にとってはありがたかった。
  真剣に検討した結果、平成6年3月に最終答申が出た時に、ある日医の先生が「今までの委員会の中でも、答申が出てもお蔵入りすることがあるものなあ」というようなこともちらっと言ったので、私も頭にきて「お蔵入りとは何ですか」とくってかかった事もある。お蔵入りされてまえば、これはいくら我々が努力して答申案を出しても何にもならない。お蔵入りされてはならないということで、直接会長にお願いして、その3月の終わりの最終の理事会にあげてもらい、日医の理事会でこの答申案を承認してもらった。とにかく答申案を出したのにお蔵入りするかも分からんと言われたので、「じゃ、私は先に全国に流すよ」と言ったら、日医は「ちょっと待ってくれ」と「最終の理事会にかけるから」ということで、かけてもらったもので、4月になって「もうこれはどこに出してもいいよ、理事会を通ったから」という話で、この答申を全国に流した訳である。
  有床診療所はプライマリーケアを含めた、いわゆる入院施設である。ところが現在中医協の診療報酬検討委員会の中でも、入院を主とする病院と、外来機能を主とする診療所と、入院と外来を同時に行う医療機関、この3つのカテゴリーが示されている。有床診療所がどこに入るかということは、まだはっきりした検討はなされていない。小規模入院施設検討委員会の大道委員長は、あくまで小規模入院施設は診療所のカテゴリーに入れるべきである、病院の中に入れられれば規制が厳しくなって、今までプロフェッショナルフリーダムとして有床診療所が果たしてきた機能が損なわれる恐れがあるというお考えである。しかし日医の中には、1床でもあれば病院だという先生方もいるので、これは今後の検討する課題になるであろう。
  最後の答申案の中で述べているが、やはり小規模入院施設というのは、専門性をもって行う入院施設と、それから在宅医療を支援する後方機能をもった、いわゆる在宅支援の収容施設、この二局性が今後有床診療所に課せられた機能ではないかと思う。
  平成6年10月の改定で、診療所の看護料の問題もある程度評価されたが、4月の改定の時は、主として病棟に勤務する看護婦の数が5名、10名というようなことだったので、すぐ4月に厚生省と日医に相談し、有床診療所というのは1つの医療機関を1看護単位とするというふうに決めて、10月改定の時にはそうなったし、寝具料も病院と同じにとれるということになった。特に10月改定で特筆すべきことは、給食料である。今度の点数改定で有床診療所がひとつの評価をされたというふうに思う。また、診療所老人医療管理料というのが新しくできたが、二局性の、いわゆる在宅支援をする方向の選択肢一つではないかと思う。かって有床診療所のベットがだんだんスリーピングベットになっていったが、そのスリーピングベットを利用するために、有床診療所を老健施設のように利用できないかという話があった。しかし、転用できるという老健施設というのは、ひとつの医療機関をそっくりそのまま老健施設に転用するという考えであったので、我々にとってみれば、医療機関が全て老健施設に転用するということは、医療からリタイアするという考えがあってその当時は、有床診療所を老健施設に転用することはまかりならんという会の意見を出して、これを蹴った訳である。その当時の担当が吉田常任理事で、老健施設を作るのに有床診療所のベットを使おうという考えがあったが、我々の会が反対したので、それではということで現在の老健施設が50床を境としてできた訳である。それから先、有床診療所の医師の高齢化と、それから経済的な問題でスリーピングベットが増えてきたので、会としてもこの際、老健施設に転用できるような方向で検討すべきではないかということを申したところ、かっては有床診療所を老健施設に転用するのはまかりならんと言って、今度はしてくれとは、あまりにも虫がよすぎるというような話で一蹴されたことを覚えている。それが今度は、幸か不幸かと言っていいかどうか分からないが、吉田先生が亡くなられたので状況が変わって、じゃ有床診療所の老健施設化というのも、一応有床診療所そのものを全部老健施設にするのではなしに、その一部をということで、今度10月の点数改定で、診療所の老人医療管理料というのが、有床診療所19床の中で、何床かをそれに当てることができるというような方向にいった訳である。これは我々が主張したことが、ある程度通ったというふうに思っている。
  これから先は、有床診療所というのは非常に専門性をもって、どんどん進んでいく病室と、それから在宅支援をする後方機能のこの二局に分かれるかもしれない。24時間対応ができるというのは有床診療所だけである。病院もかかりつけ医がいるのだという意見があるが、しかし、24時間同じ主治医が対応できるのは、やはり有床診療所だけではないかと思う。有床診療所が地域医療の中から消えていけば、これは地域医療にとって大きなマイナスである。だから、有床診療所はなるべくベットを閉鎖しないように、何床でもいいから残しておくべきである。このベットをどう活用できるかということは、これから先の問題になると思うが、一旦閉鎖してしまうと、これをまた復活するのは相当なエネルギーが要るので、無床にしないようにお願いしたい。
  有床診療所の会も、全国の会員が4,000名を超えて一つの目標は達した。これが5,000名になれば、更に発言力もついてくるのであろう。
  さて、金沢で行われたあと、平成5年は佐賀、平成6年は徳島、平成7年は沖縄で、平成8年は福岡で、第9回総会(十周年記念総会)が開かれた。
                             (論説   平成9年初頭に際して想う)



最終更新 (2010年 7月 20日(火曜日) 13:17)